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2006年5月31日、天外伺朗さん(本名:土井利忠)ソニーを退職し、7月21日生前葬を行いました。

 土井利忠としての天外さんは、2006年5月31日をもって、ソニーを退職されました。土井さんはCDの共同開発、ニュースステーション、ロボット犬アイボの開発など、コンピューターサイエンスの分野で活躍されましたが、会社の仲間が「土井さんに感謝する会」として、同年7月21日に生前葬を開催しました。
 天外さんは一人三役(故人、喪主、導師)を演じ、土井利忠さんをあの世に送られました。
 土井さんの遺影を前に、天外伺朗さんは喪主としての挨拶をされ、そのあと僧侶の式服に着替え、導師として入場されると、本格的な衣装に皆さん驚かれたようです。また、天外さんが、引導として、霊を戒める言葉(現実にはそのようなものは行なわれない)を読み上げ、ユーモラスな生前葬でした。笑いをこらえる方が大勢いらっしゃったようです。
 弔辞、読経、弦楽奏、お焼香がある本格的なものでしたが、最後は全員で歌うと涙がとまらなく、天外さんも感動と感激の思いでいっぱいになりました。

「戒霊告」
(罪深き人生を送った霊に対して、僧侶が送る戒めの言葉
/鈍的珍能寺  住職 隠照醍那(天外伺朗))

死せる者よ  霊となりし者よ
かって土井利忠と名乗りし者よ
いま我は、汝を戒め、ここに告げる
汝、生前において 悪行のかぎりを尽くし
人心をたぶらかし
人を人とも思わず

上司を上司とも思わず
ひたすら己の欲するところを行い
思ったことをそのまま口にし
もっぱら組織の秩序を乱してきた
社長命令を無視したこと数知れず
規則やルールを破ることに喜びを見出し
多くの人に慨嘆と焦燥と涙をもたらした
汝がやっとのことでくたばったと聞いて
いかに多くの人が歓喜にむせんだことか

汝の生前の悪行は、当然の報いとして地獄が
ふさわしいと万人が認めるところであるが
仏法によれば、たとえ悪人といえども
極楽に正機をなすという
(中略)
死せる者よ
霊となりし者よ
かつて土井利忠と名乗りし者よ
悔い改めよ
戒めを守り
正しい言葉を発し
正しい行いをなすべし
極楽にて女性の霊にちょっかいをだすべからず
霊としてどこでも行けるからといって
女湯をのぞくべからず
ひたすら善行に励み
極楽の発展に尽くすべし


弔辞1.(大槻 正さん)

 土井さん、今霊前のお写真が涙ににじんで、かすんで見えます。今にも話し掛けてきそうな土井さんの写 真を見ているといつものように私達を励ましていただいているように思えてなりません。

 土井さんと最初に仕事をしたのは三十年前のデジタルオーディオの開発の時でした。符号理論や誤り訂正符号など知らないことばかりの中で、土井さんは真っ先にそれらをマスターして新しい理論を構築され、私達をご指導いただきました。またその技術を広めるために海外メーカーとの交渉に臨まれました。その姿は無言のうちに私達に伝染していきました。千九百二十八年に発売されたCD(コンパクトディスク)も土井さんなくして実現していません。素晴らしい功績と実績を残されました。その後はそれぞれ別 の仕事しましたが、千九百九十七年からロボットの開発で再び一緒に仕事をすることが出来ました。
 AIBOをどのようなロボットにすべきか、どのようなビジネスにすべきかと悩んでいる時も色々な案を提案していただき、最終的には私達に選択と決定できるようにご指導いただきました。メンバー全員が一心不乱にAIBOの開発、ビジネス化に邁進できたのは土井さんのご指導とお人柄によるものです。土井さんがよく言われていた「燃える集団」になるために火を付けることがお上手でした。まさしく、土井さんは人々のやる気に火を付ける「放火犯」でした。放火されたほうは火が付いたことすら知らず、実力以上のことをやり遂げますし、障害も自然になくなります。やり遂げた後には満足感が残る。土井マジックなのかも知れません。土井さんは仕事だけでなくミュージシャンであり作家でもありました。その多芸多才ぶりは私達の模範でした。土井さんからお教えいただいたチャレンジ精神をこれからも実践したいと思っています。
 土井さん、長い間、ご指導をありがとうございました。土井利忠さんとしては安らかにお休みください。

弔辞2.(所 眞理雄さん)

 土井さんに初めてお目にかかったのは1987年の初夏でした。土井さんは血気盛んなエンジニアをまとめて、極めて短時間で「NEWSワークステーション」を開発し、発表後すぐに五千台を売ってしまうという快挙を成し遂げておられました。通 産省の指導に逆らい、当時最も進んでいたBSDを採用しました。ビットマップディスプレーもイーサネットも付いていたので、システムVに負けるわけはありませんし、同様のSUN2に比べれば半額以下の値段だったので、爆発的に売れるのは当然で、社内、社外、国内、国外から絶賛を浴びておりました。
 土井さんは、全くの初対面の私に対して、「慶応大学を辞めてソニーに来てNEWSワークステーションの事業部長をやりませんか。」と話し出しました。当時、大学の閉塞感を感じていた私でしたが、さすが突然ソニーの事業部長と言われても務まるわけがありませんので、「助教授で大学を辞めるわけには行かない」とお断りしました。土井さんは「せっかくNEWSワークステーションが立ち上がったのだから何か将来に向けて良い企画はありませんか。」と返してきたので、「それでは世界一の研究所を作りませんか。」とお答えしたところ、「それでは設立企画書を書いてください。」ということになりました。
 ほぼ一ヶ月後、設立企画書を持って土井さんにお会いしました。設立企画書には、「小さくてもよいから、オリジナリティに溢れ、世界から夢を持った研究者が集まってくる、そして次世代の分化を作る。そのためにはソニー本社の人事制度から独立した子会社として設立する。」と書きました。土井さんは一言、「これで行こう。」と仰りました。そして一ヵ月後、土井さんより、「経営会議に通 ったので、研究所長をよろしく。」「え、私が所長?」、「そうです。」「・・・・・・大学と兼務でもよろしいでしょうか?」、「良いでしょう。」こうして1988年2月に設立されたのが株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所です。
 現在の場所に立派な研究所を作っていただきましたが、良い人しか採らない、という方針で運営したので、最初の3年間は4、5人しか人が集まらず、土井さんはよく耐えてくださいました。その後、研究員の数も増え、アペリオスやVRMLなど研究成果 もどんどん出るようになり、国際的に評価されるようになりました。土井さんはしょっちゅう研究所に顔を出して、皆と技術について、ビジネスについて、文化について、本当に楽しそうに話をされていました。井深さんが若い頃の土井さんに接した姿はこうだったのかな、と思わせるものでした。
 93年のソニーの不況時にソニーコンピュータサイエンス研究所は存亡の危機に見舞われましたが、土井さんは本社の意向を完全に無視し、しかも我々には一言もそのような心配をさせず、研究所を守ってくださいました。心より感謝いたします。
 CSLでのディスカッションの結果の一つがAIBOです。土井さんは次世代の人工知能やロボットについて研究員と語らっていた中からエンターテイメントロボットの概念を作り出し、AIBOとして商品化されました。そして世界をびっくりさせ、子供からおじいちゃんおばあちゃんに至る広い範囲の方々から支持されました。CSLで開発したアペリオスOSもその中に使われました。AIBOはその後QRIOにつながっていきます。そして更には新たな実用性のある人工知能を目指して、インテリジェンスダイナミックス研究所を設立しました。
 土井さんは常に新しいことをやろう、人と違ったことをやろう、そしてそれを形にしてみんなをびっくりさせよう、世界ナンバーワンになろうとしておられました。永遠の少年であり、土井さんこそがソニースピリットを純粋に引き継いだエンジニアであり、プロデューサーだったのではないかと思います。
 97年に私が慶応義塾大学を退職し、ソニー本社に上席常務で迎えていただいた後も、本社業務、CSL業務ともにメンターとして指導してくださいました。また、一緒にソニーの近代化に向けて戦ってまいりました。人工知能の実用化、ソニーの近代化への努力の道半ばで土井さんが逝かれました事は痛恨の極みであります。土井さんの意志は残された我々が引き継ぎ、ソニースピリッツを復興し、必ずやソニーの完全復活、再生に向けて頑張ることを誓います。
 土井さん、本当に有難うございました。
 ご冥福を心よりお祈り申し上げます。どうぞ安らかにお休みください。
 合掌

弔辞3.(NEWS時代の部下代表  堀 昌夫さん)

 NEWS時代の部下を代表してお別 れの言葉を述べさせていただきます。
 土井さんと出会ったのは私がまだ厚木にいた20年以上前の事でした。
 当時厚木にあったMIPS事業本部は毎年赤字続きで、中野エンジニアは新しいチャレンジをする機会も無く、残業時間にこっそり勝手な開発をしたり、仲間で勉強会をしたり、新人の女子社員を引き連れて遊びに行ったりしながら憂さ晴らしをしていました。
 その時、土井さんがどこからともなく現れ、当時開発されたばかりの32ビットマイクロプロセッサを使って何か新しい事を始めようと、手塚君など一部のエンジニアをそそのかし始めました。
 その後、本社の開発研究所に異動したかと思うと、厚木から手塚君と私、田中、そして新人の林君の四人を呼び寄せ、開発研究所にいた七人のメンバーと共に本格的に32ビットコンピュータの開発をスタートさせました。
 右も左も分からぬ私たちを、常に強いリーダーシップと呆れるほどのアグレッシブさで引っ張り続け、非常に短時間でワークステーションの開発を成功させただけでなく、ソニーの既存の販売体制では売れそうに無いと分かると、大胆にも、サンマイクロに試作品を担いで持って行き、OEMしませんか、と迫ったり、それでもだめならと、自分で全世界に販売会社を設立してしまったり、私たちも付いて行くのが大変でした。
 しかしそういう経験の中で本当に沢山の勉強をさせてもらいました。その後土井さんは更なるチャレンジでロボットの世界へと進まれてしまいましたが、土井さんの下で研鑽を積んだメンバー達がソニーの中のあらゆる分野で活躍し、今のソニーはこの時鍛えられた人達で支えられていると言っても過言ではありません。あの頃、土井さんはいつも「高い志を持て」と仰っていましたが、当時はその言葉を本当に理解していませんでした。
 既に私はその頃の土井さんの歳を越えてしまいましたが、世の中は何と志の低い人達ばかりなのか、私自身の反省を含め、高い志を持ち続けることの重要性、その難しさを実感しております。

 土井さん、先に天国に旅立たれてしまいましたが私たちは、土井さんの教えを守り、常に高い志を持ち、チャレンジ精神を失わず、常にアグレッシブに生きていこうと決心を新たにしています。土井さんどうか今後も天国で私どもをお守りください。


「幸せな男」
天外伺朗作詞作曲

そんなに泣かないでおくれ
遠くに行くんじゃないから
風にとけ込んで
いつも そばにいるよ
おぼえているだろう
夏祭りの夜を
君は おさげ髪で ポックリをはいてた
赤い浴衣に笑顔がはえた
あれから もう 五十年
すてきな 日々を ありがとう
みんなに伝えておくれ
笑ってむこうに行ったと
こんな幸せな 男はめったにいない