ホロトロピック・ネットワーク天外伺朗の部屋(慈空庵)メッセージ>2007年01月    
 

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2010年2月『世のため 人のため』(新春メッセージ)

 
  1997年にこの会を始めたころ、もっと「世のため人のため」になるようなテーマを掲げてください、とよく言われました。そのころの名称は「マハーサマーデイ研究会」であり、瞑想中に亡くなるためのテクニックを皆で探しましょう、という会でした。
  評判は散々でした。
  「まるでオウムみたいな名前!」「死に方を考える?なんて不吉な・・・」「もっと明るい話題はないの?」「死というのは、個人的な営みであるべきで、皆でこういう死に方をしましょう、などというのは薄気味悪い」「死に方に理想的な・・・なんてありえない」など、などです。
  そういう批判の中に、「世の中これほど大変になっているのに、それに目をつぶって、社会に対する働きかけをまったくしないで、自分の死に方ばかり気にしている・・・・なんてエゴイステイックな会なんだ!」というお叱りがありました。たしかに、一般常識としては、人として生まれてきたからには「世のため人のため」に尽くすような生き方をしなければならない、という強迫観念のようなものがあると思います。死に方を考える会よりは、環境問題とか貧困問題に取り組んでいる会のほうがよほどえらい!・・・・という感じでしょう。
  その批判を受けるたびに私は、「いやー・・・・人間という生き物は、結局、一生かかって自分の事しかできないものですよ・・・・」と、お答えしていました。ほとんどの場合、そこで会話は途切れ、その人は会から離れていきました。私もそれ以上深追いはしません。
  じつは、「世のため人のため」という看板を掲げたとたんに、その人の存在は空虚になってしまうのですが、ほとんどの人はその事に気づいていません。これは、よほど自分自身をしっかり見つめ、物事を深く考えていないとわかりません。上記の一般常識に染まっている人に、それを論理的に説明して納得してもらう事はきわめて困難だし、あまり意味があるとも思えないので、私はほっぽらかしにしているのです。
  最近、「天外塾」という経営者向きのセミナーを開いていますが、同じことが起きています。
  私の説く企業経営は、遊び心を大切にし、自分が楽しいと思うこと、心の底からワクワクすることに取組み、チームが「フロー」に入る、などを大切にしています。つまり、一人ひとりの個人的な内面の状態を中心に経営を考えているのです。
  『マネジメント革命』を書いた時、稲盛和夫さんの推薦をいただいたこともあって、彼の主催する「盛和会」という企業経営者の勉強会にも呼ばれて講演することもありますが、稲盛さんの説く経営は全く逆です。「自利」を排して、徹底的に「利他」を追求しなさい、と教えているのです。つまり、「世のため人のため」の経営学です。
  「天外塾」では、「利他」という行動の本質を「ボランテイアの行動学」として教えています。ボランテイア活動をする人は、一般に下記の内面的な段階をたどります。
1. 人から強制され、あるいは義務感や格好をつ  けるためにボランテイアをやっている段階。
ボランテイアをやっていることを、見せびらかしたい、人に褒めてもらいたい、という自己顕示欲が強くでてきます。上記の一般常識にとらわれている人はこの段階にあり、自ら「世のため人のため」という看板をあげたり、その看板のもとに喜んで馳せ参じてきたりすることが多いのです。
2.ボランテイアを続けているうちに、相手に喜 んでもらえたりして、「これは意外に気持ちがいいものだ」と気付きます。自己顕示欲は少し減ってきます。
3.そのうちに、「世のため人のため」と思って いたけど、結局これは自分のためなのだ、つまり「利他」と「自利」は区別できないのだ、と気付いてきます。心からそう思うと、もう自己顕示欲はなくなり、人に褒めてほしいとは思わなくなるので、ボランテイアをやっていること自体をあまり人には言わなくなります。つまり、「世のため人のため」とか「利他」とかいう看板はもういらなくなるのです。古い諺でいう「情けは人のためならず」というのは、このことをいっています。
?4. さらに意識の成長・進化が進むと、「利他」
も「自利」もなくなってきます。どうでもよくなってくるのです。行動を起こすときに、いちいち「何のため」という理由をつけなくなり、とくに動機も目的も意識せず、何となく動き出すようになります。宇宙の滔々たる流れがだんだん見えてきて、自分も宇宙の一部であり、心の深いところからこみ上げてくる通りに自然に行動していれば、自分もその行動も宇宙の流れに溶け込んでいることに気づくのです。そういう行動は楽しいし、ワクワクするし、「フロー」にも入りやすくなります。

  私たちは、自分でも気づかずに社会の文化的な規範や制約に強く縛られ、その枠の中だけでしか発想ができなくなっています。「世のため人のため」に人生を捧げなければいけない、という教育を受けて育ってくると、それが倫理観というよりは一種の強迫観念となり、人を上記の「一」のレベルにとどめてしまう働きを持っています。
  いま世の中のほとんどの人は「一」のレベルにありますから、その枠の中で発言したり、行動したりした方が受けはいいし、社会の評価も上がります。つまり、私のように「人間は一生かかって自分のことしかできないものですよ」というより、「私は、世のため人のために一生を捧げます」というステートメントを発信した方が格好もいいし、評判もいいでしょう。
  でも、このように評判を気にする、というのも自己顕示欲の一種ですね。私がこういう書き方をしていること自体、自分の発言が評判を落としていることを意識している訳ですから、自己顕示欲が並々ならぬことを示しています。
  でも、逆の言い方をすれば、自らの自己顕示欲に気づいているのはまだいい方で、「1」のレベルにある人のほとんどは、それに気づいていません。
  ただ、最近感じているのは、私の年代の人たちだと、ボランテイアをやってもそれを意識して自慢げに話す人が目立ちますが、若者たちの大多数は「2」か「3」にシフトしているようです。彼らは、とても気軽にさわやかにボランテイアに入っていきますし、それを人に見せびらかそうという意識も希薄です。
  最近は、災害のたびに若者のボランテイアが大活躍しますし、不幸な事件がありましたが、アフガニスタンのベシャワールの会のような海外のボランテイア活動にも若者が殺到しています。故マザー・テレサの「死を待つ人の家」などのボランテイアも、多くのキリスト教国を抑えて日本人が一番多いそうです。
  やはり、人類は進化しているのだな、と痛感しますし、世界の中でも日本の若者たちは最も進化しているのではないかと誇りを感じています。
  一見すると、世の中まだまだ混迷を深めているようですが、今の若者たちを見ていると、日本の未来はとても明るいですよ!!!
                       (ニュースレター「まはぁさまでぃ」Vol.58より)