ホロトロピック・ネットワーク天外伺朗の部屋(慈空庵)メッセージ>2007年01月    
 

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2009年5月『吉福ワークの終了と神田橋さんとの出会い』

  1997年に医療問題に取り組み始めてから何年かたった後、どうしても医療者に意識の問題に関するトレーニングをする必要性を感じました。「病気になると死に直面するので意識の変容を起こしやすくなる。それを医療者が秘かにサポートしよう」という概念を提唱したのですが、「それはわかった、ではいったい何をすればいいの?」という疑問に私自身が答えられなかったからです。ホロトロピック・センターの提唱は、まったく実務経験のない私のきわめて観念的な思い込みからスタートしています。
  医療者に対してきちっと意識の問題をトレーニングできる講師はいないかと、あらゆるつてをたどってみたのですが、結局日本には発見できず、すでにハワイで引退生活を送っていた吉福伸逸さんを引っ張り出すより他はないという結論に達しました。そこで、2001年にハワイまで口説きに行きました。日本でワークショップをやるのはいやだとのことなので、翌2002年にマウイ島まで会員を引き連れていき、本格的なサイコセラピーのワークショップをお願いしました。最初は私自身もショックと驚きの連続でしたが、「これだ!」という感覚は十分につかめました。
  そして首尾よく翌年から日本で定期的に開催できるようになり、今日に至っています。
  その間、あまりの激しさに会から離れていった会員さんも若干いらっしゃいましたが、精神的に不安定な多くの会員さんが見事に立ち直っていくのを目の当たりにしましたし、参加した医療者たちの意識がどんどん変わっていったのはとてもうれしく思いました。つまり、吉福ワークはホロトロピック・ムーヴメントの中心的なイベントに位置づけられたのです。いまでは、この運動を支えてくれそうな医療者が大勢育ってきました。
  ところが、吉福さんが日本でワークショップを開催していることが知られると、昔の仲間たちがほっておくわけはなく、毎年春と秋に膨大な数のワークをこなさざるを得ない状況になってしまいました。吉福さん自身も、「ちょっと限界だ」ということで、2009年4月のワークで、ホロトロピック・ネットワーク主宰のワークショップは終了することになりました。今後はSEN(Spiritual Emergency Network―今後名称は変わる予定)は残ると思いますので、希望者はそちらにお申し込みください。
  吉福さん、長い間本当に有難うございました。

  さて、これで終わりということもあり、4月25日−29日に指宿で開催されたセラピスト向けの吉福ワークに参加してきました。いままでの会が主催したワークでは、どうしても主催者としての意識が抜けきれず、いまいち入り込めないところがあったのですが、今回は自分自身のために参加しました。
  セラピストとしてのトレーニングは一切受けたことはなかったのですが、ファミリー・セラピーをやってみるとたちまち破綻してしまい、やってはいけないといわれていたことを全部やっていた自分を発見して、結構落ち込みました。自分ではもう少しはやれるのではないかと思っていたのです。
  自分が一番苦手としている感情を相手に起こさせるワークでは、「怒り」を選択しました。
  もう八年も吉福ワークを受けているので、他の情動には結構接地できてきたのですが、長年の会社生活で極端な抑圧をしてきたせいか、心の底からの怒りをどうしても感じられない身体になっていたからです。でも、嫌みをいうのは得意なので、人を怒らせるのは簡単にできると思っていました。ところが、組んだ相手が精神科医であり、不快な感情は呼び起こせるのですが、私の嫌みや脅しくらいでは、まったく通用しませんでした。結局、自分自身が怒りに接地しないと相手を怒らせることはできないと悟り、ギブアップしました。
  その2日後に、今度は一番いやだと思う相手とののしりあう、という激しいワークがありました。これは私の得意技であり、激高した相手の言葉を逆手に取り、ぐうの音も出ないほどにねじ伏せてしまいました。声の大きさも、迫力も、存在感も、はるかに私のほうが勝っていたと思います。言葉ではかなわないと思った相手は、本当は禁じられているのですが、ついに暴力に訴えてきました。両手をとられて引きずりまわされ、ようやく立ち上がっても、こちらが技をかけるよりも早く投げられてしまい、なすすべもなく翻弄されました。このときに、本当に何十年ぶりかで腹の底からの怒りがこみ上げてきて、相手の腹を蹴り上げました。幸か不幸か、相手は武道家だったので私の足は空を切りましたが、禁じられている暴力にまで訴えた自分に驚きました。なお、その後二人は、当初のいやな感情はきれいさっぱりなくなり、涙に咽んで長いこと抱き合っていました。
  もうひとつの気づきは、ボーダーライン症候群の患者を演じたときにありました。
  ボーダーラインというのは、セラピストをあがめてすがってきたと思えば、突如として豹変して極端に攻撃的になったり、すべてがセラピストのせいで無茶苦茶になったといったりして、セラピストを自分と一緒に地獄に引きずり込むのが特徴です。吉福さんのアドバイスとしては、ボーダーラインと感じたら、わき目も振らずに逃げ出せ、ということです。ちょっとでも未練を感じて振り向くと、地獄に引きずりこまれるそうです。
  その患者の役をやってみると、理不尽な引っかかり方をしてセラピスト役を脅すことは結構気持ちがよく、この面では才能あるな、と得意になっていました。ところが、脅すばっかりで、ちっともすがれないのです。
  「これでは、まるで総会屋だな」と内心苦笑して、自分の内面を点検していたら、「ひとにすがる」ということに対して、強烈に抵抗している自分を発見しました。たとえ演技でも、それを表に出す前に自分で抑圧してしまうのです。これはおそらく、何十年にもわたって私の異性関係に影響を及ぼしてきた特性でしょう。
たぶん、その要因は、幼児期にまでさかのぼらないとわからないでしょうが、67歳になってこんなことを発見するのですから、人間というのは面白い存在ですね。
  そんなこんなでワークショップが終わり、29日の夕方は鹿児島在住の精神科医である神田橋さんとの夕食会がありました。じつは、一泊の宿泊つきの航空券であり、祝日の29日に帰るより翌日帰ったほうが航空券は安くなるという事務局の思惑で、それなら、いままですれ違いでなかなか会えなかった神田橋さんと食事、というのが裏の事情でした。つまり、航空券を安くするための、いわば方便としての夕食会だったのです。
  それが、私にとって「運命の出会い」になったのですから、人生わからないものです。
  そこは狭いちゃんこ鍋屋さんであり、私は神田橋さんの目の前に座りました。座ったとたんに、何か不思議な感覚にとらわれたのを覚えています。何かに包まれるような、ふわっとした感覚です。『いのちと気』の本を差し上げると、「矢山さんと天外さんと不思議な取り合わせですね」とおっしゃいました。どうやら、私はソニーの技術屋としてしかご存じない様子です。
  そこでホロトロピック・ムーヴメントに関して説明を始めたのですが、きわめて簡潔に短時間でしっかりと説明できたので、自分でびっくりしました。これは夕食の間中ず―っとつづきました。神田橋さんの前に出ると、なぜか適切な言葉が出てくるのです。
  そして、私が心の中で引っかかっていたことを、ひとりでに口にしていました。それは、心のことを学んだ医師は、とくに精神科とか心療内科とかいう看板を上げていないのに、不思議に心の問題を主訴とする患者が集まるようになることです。その中には当然ボーダーラインも含まれており、ひどい目にあいつつある医師もいます。私が、素人ながらいろいろと提唱したことで、それを信じた医師に予期せぬ災厄が起こりつつあるのです。
  「私はボーダーラインという線引きはしません」というのが、彼のコメントでした。
  「あれこれ引っかかってくれるエネルギーがあれば、むしろコミュニケーションは取りやすくなるんじゃないですか?」
  「なるほど」と、私は思いました。上には上があるもんだ。そして、彼の方法論は言語や講習では伝達できないことが、直感的にすぐわかりました。唯一の方法論は盗むことです。そこで、ホロトロピック・ムーヴメントにご参加いただいている医療者が神田橋さんの診療を見学できる機会をいただくようにお願いして、ご了承をいただきました。ご希望の方は事務局にご連絡ください(神田橋さんへの直接の連絡はご遠慮ください)。なお、メデイポリスの原田美佳子院長はすでに見学を始めています。
  神田橋さんと私は、医療に関する考え方、人生観、物事の価値観など、あらゆる考え方が驚くほど似ています。ところが、その表現は私がことごとく「ぎゃふん」といわざるをえないほど、彼のほうがうわ手で、洗練されており、スマートです。
  たとえば、お互いにパワーポイントなどで講演の資料をあらかじめ用意することは最悪で、講演会場に立った時点で話す内容を決めるほうがいいということでは意見が一致しました。私はそれを「その場の空気を言葉にする」といったのですが、神田橋さんは「過去の自分に支配されたくない」と表現しました。
  人工知能が人間生活にはまったく役に立たないので、ペットロボット「AIBO」しか作れなかったという話をしたら、「世の中のほとんどのものは、役に立つことしかできませんね」といわれました。
  自分のやっていることがいろいろ矛盾しているとくどくどいっていたら、「胸を張ってこういえばいいじゃないの」とアドバイスをくれました。
  「私は矛盾しています。矛盾しているぐらい自然なんです」
  夕食のあいだ、私は涙が止まりませんでした。
  じつは、神田橋さんとはそのことは一言もお話しなかったのですが、この会見で私はしばらく前から抱いていた疑問をきれいに整理することができました。
  それは、「意識の成長・進化」が学問になりえるか、という疑問です。今まで長いこと宗教が扱ってきたことを、トランスパーソナル心理学が学問にしてきました。ケン・ウィルバーが意識の成長の階層構造を発表し、多くの批判を浴びて、T,U,V,W、Xとモデルを進化させましたが、私はまったくついていけず、自分の著作の中では、古典的なユングのペルソナやシャドーで説明できる範囲しか扱いませんでした。
  学問として扱うと「人間の不完全性」にメスを入れ、その要因を探り、頭で考えた「より完全な人間」へ移行できるように方法論を工夫するということになります。たしかに、サイコセラピーの手法はそれなりに効果を挙げてきました。これは、クライアントのバランスをいったん崩壊させて再構築するので、きわめて侵襲的であり、身体の病気に対する西洋医学に似ています。ところが、「不完全性」を解消しても、解消しても、やっぱり人間は不完全なのです。すごく大きな目で見ると、いろいろ始める前と大して変わっていないようにも見えます。自らの完全性を演出しようとすると、よけいその不完全性が浮き彫りになってしまいます。そして「いろいろやってきた」という意識が、「やっていない人」を差別するというか、蔑視するような、ひずんだコンプレックスを生む傾向も感じられます。
  もうひとつは、人間はいくら努力しても自らの物語しか語れない、という気づきです。
  社会に適応できなかった人は、社会を否定して、その人生を正当化する物語を語るし、私のようにこの社会で一応の成功を収めてしまうと、名前を変えようと何を語ろうと、どうしてもその臭みが出てしまいます。学問として扱うと、人間の成長の物語はひとつになってしまいますが、実際には一人ひとりまったく違う物語を紡いでいく存在だと思います。
  学問として意識の成長・進化を語るのではなく、完全性を目指してぎりぎりと外科手術のような「もがき」をするのでもなく、人間というのは不完全なまま生きていくのだ、ということを認め、それぞれの物語を充実させていくという方向性もありうるのではないかとしばらく前から考えていました。もちろん、生きていくのがとてもつらい人たちは、その要因を取り除くようなセラピーが有効でしょう。そうでない人々は、不完全な人間が大勢集まって、不完全な社会を作っているという現状をそのまま認め、不完全な人間も、不完全な社会も、そのままそっくり受容して、抱擁して、溶け込んでいく。つまり、今のバランスをそのまま尊重して、その中から不完全性が少しずつ軽減していくような方法論です。これは、身体の病気にたとえれば、非侵襲的な代替療法に似ています。不完全さを心から受け入れることができるということも、人が生きるうえでの成長の方向性のひとつでしょう。
  その意味では、何も考えずにひたすら「ナムアミダブツ」と称えなさいと教えた法然や、何の目的も持たずにひたすら座れと説いた道元の偉大さに、改めて感嘆しているこのごろです。
  ここまで書いてきたら、自分自身の大きな矛盾に気づきました。医療問題、教育問題、企業経営の問題に取り組んでいるのは、それらの現状の不完全さが我慢できず、改革しようとしていることだからです。不完全さを受容するということは、現状維持であり、進化を阻害することでもあります。私自身は、社会の自然な進化にそって生きていくことで自分の物語を紡いでいますが、それは単に自らの不完全性を正当化しているだけかもしれません。おそらく、人々が不完全だから世の中は進化するし、不完全性を全面的に受容できるということは、誰にとっても未来永劫ありえないのでしょう。
  私のやっていることと、いっていることは、大いに矛盾しています。じつは、矛盾しているほど自然なのです。            (ニュースレター「まはぁさまでぃ」Vol.51
より)                               

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