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2002年04月『次の新しい社会で、変革のキーを握るのは「宗教性」』

 世の中はいま大変混迷を深めていますが、これまでも何回か言ってきていますが、社会全体が大きく変わる節目に来ています。その節目に来ると、古い価値観や秩序が崩れて、新しい社会に移り変わっていくということで、長期間にわたって混迷を深めるというのは、当然予想されることです。

 いま直面している社会の変革というのは、どのくらいの規模の変革かというと、おそらく三百年前に、中世から近代文明に移り変わったときと同じくらいの規模の変革が、まさにいま起きようとしています。したがって、混迷は、これからますます深くなるだろうと思います。

 この変革のキーを握るのは何かというと、これは私の個人的な意見ですが、ひとつのポイントとしては人間の意識の成長、進化というものと、社会とのリンクを考えていただければいいと思います。そして、もうひとつのポイントというのは、これもほとんど同じような意味ですが、人間のいわゆる霊性、スピリチュアリティを考えていただければいいかと思います。そのあたりがキーになるだろうと予想しています。

 じつは、近代文明が始まる前の中世の特色は何かというと、社会の規範は宗教でした。暗黒の中世といわれるように、そこでは相当ひどいことが行われていて、宗教は抑圧的に社会を支配していたのです。その抑圧があまりひどかったものですから、近代科学が勃興したときに、みんなそちらに飛びついて、宗教的な神秘的なものから科学的な合理主義のようなものが社会の規範になりました。人間の理性に頼って、近代文明社会はできてきたといえます。それは大変良かったんですね。あきらかに社会の進歩です。ですから、暗黒の中世に戻りたいという人はほとんどいなかったでしょう。

 そういった大きな進歩をしてきたのですが、そこで失ったものもまたあります。そのひとつが、理性では捉えられない形而上的なものに関してはいっさい否定するようになってしまったことです。理性至上主義になってしまったのですね。今の社会にはいろいろな問題点がありますが、この主な原因は、社会が発展する原動力が、個人のエゴの追求に依存していることです。個人のエゴが暴走しやすい社会であるということが言えます。自分のエゴの追求に対して歯止めがかからなくて、それを暴走させてしまうという人がたくさん出てきて、それがいまの社会のひとつの基調ともなっています。

 それはどういうことかといいますと、かつては宗教による形而上的な価値感がエゴの暴走を抑える役割を果 たしていました。今でももちろん人間の美意識とかいろいろな面で、エゴの暴走を抑える歯止めがないわけではありませんが、それを紐解いていきますと、人間の美意識がどこから来るかというと、じつは、どんな人間も持っている基本的な宗教性のようなものに、たどり着くわけです。

 ユングという深層心理学者は、あらゆる人間は心の奥底に宗教性を持っていると言っていて、それが美意識などにつながってきます。そして、そういうものがエゴの暴走をかろうじて抑えてはいますが、社会全体としては宗教の地位 が低下したため、エゴの追求を抑える力が弱くなりました。したがってエゴがひじょうに暴走しやすい社会になってきて、それがあちこちで火を噴いています。

 競争社会にもなってきて、競争が激しくなって、ある意味では経済成長とか産業成長に対して、個人のエゴの追求はプラスに作用しているのですが、そのへんが暴走しているがために、暴走した本人もつらいし、まわりの人もつらいという社会のあり方が出てきています。

 それがかなり煮詰まってきたのが近代文明社会と言えます。

 そのために次の社会では、エゴの暴走に対するバランスという意味で、形而上的な価値観が、表舞台で語られるような社会になっていくのだろうと思います。形而上的価値観というのは、人間が心の底に誰しも持っている宗教性というものがポイントになるわけですが、ここに大きな問題がひとつあります。それは宗教性というと、人々はすぐに宗教と結びつけてしまうことです。

 ところが、今のキリスト教とか、仏教とか、イスラム教やヒンズー教という宗教が、社会の中で地位 を低下させていった理由があります。それは何かというと、そういう宗教というのは独善的であって、閉鎖的であって、排他的であり、それらはじつは競争社会を構成している要因と同じルーツなのです。したがって近代文明社会が煮詰まったのとまったく同じ理由で、煮詰まっていく宿命にありました。そこで既存の宗教を持ち出して、その中から形而上的な価値観を取り出して、次の社会の柱にするという のは無理です。

 人間が心の奥底に持っている、ひじょうにピュアな宗教性というものと既存の宗教というのは、すでにもう大きな矛盾が発生しています。人間の宗教性に答えていないのが、今の宗教だと私は見ています。

 宗教という言葉自体、ひじょうに大きな問題をはらんでいます。アメリカインディアンの伝統派と付き合っていると、誰も宗教ということはいいません。たとえば母なる大地とか、ワカンタンカという彼らの創造主などにみられるように、日常の生活と一体化していますから、宗教といわなくても、瞬間、瞬間、自然や創造主と一体の中で生活していますから、宗教みたいなものはありませんし興味もないのです。宗教家もいないし、宗教の組織もありません。また教会もお寺もありません。したがって、他の宗教が来ても、矛盾するものとは捉えないでどんどん受け入れて、自分たちの生活に取り入れてしまい、人間が本来持っている魂の宗教性と矛盾しないのです。

 一方、文明社会では、宗教は大きな建物、大きな組織があり、大きなお金が動いています。そして独善的で排他的な教義があります。アメリカインディアンの生活に比べると、はるかに宗教性から離れています。ですから今の宗教というのは、ほとんど宗教性を失ってしまったと言えるでしょう。

 そこで宗教性という言葉を使うと、そのあたりの関係が混乱する怖れがあります。最近、いろいろな人と話していると、アメリカでは、レリジョン(宗教)ということと、スピリチュアルということをまったく区別 して使っていて、レリジョンはレリジョンであって、その中には人間のスピリチュアリティに関する知恵はもちろん含まれているけれど、宗教としての外側の飾りはそれとは直接関係ないという捉え方をしている人がひじょうに多いようです。

 スピリチュアリティという言葉を日本語にすると、霊性ということになりますが、霊性というとちょっと違った印象になりますので、私は宗教性という言葉を使っていますが、宗教性というというと今度は、既存の宗教を連想させてしまいがちです。そのスピリチュアリティに対する適切な日本語が見つからないというのが、私たちの悩みのひとつです。

 霊性でもない、宗教性でもない、人間が魂の底に抱えているひじょうに純粋な宗教的な考え方、宗教的な発想、美意識、感性というものを、適切な言葉で表して、それを既存の宗教とは無関係に、表に出してこなければいけません。それが次の社会のキーになるだろうと思うのです。そして、それが次の社会のシステムの中に組み込まれていかないと、次の社会がちゃんと見えてこないだろうということです。

 そのひとつの方向性がトランスパーソナル心理学で、それが学問の中でそのあたりの問題まできちんと追求しています。トランスパーソナル心理学は、アメリカで1969年に学会ができてから33年経ちますが、いっこうに世の中に普及しそうもないということで、これからどうやって世の中の表舞台に紹介していこうかということも、今後のひとつの大きな仕事になるのではないかと最近考えています。