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2001年04月『ほんとうの心の平安は、あるがままを受け入れること』

 2月の初め、京都の圓通寺というお寺でパイプセレモニーをしました。圓通 寺というのは、 ある天皇が隠居所を作るということで10数年間にわたって京都中を探し、地場エネルギーの 高いところ、景色のいいところ、ということで選んだそうです。そしてここは比叡山がいちば んきれいに見える場所だそうです。天皇の亡くなったあとは、遺言によりお寺に寄付されて、 いまは臨済宗妙心寺派のお寺になっています。

 したがってこのお寺というのは、宮家が参拝に来るというので檀家を持てないこともあって、 終戦までは宮内庁からお金が出ていましたが、現在は拝観料でなんとかまかなっている状況で すが、素晴らしい建物は多くの人々に愛されています。

 今度都市計画で、この近くに道が新たにできることになって、その道ができればさらに新た な建物が建つ許可が降りるようです。そうするとせっかくの比叡山の素晴らしい借景が壊され てしまうということで、和尚さんも参拝者にそのことを強く訴えておられます。私が主催して いるマハーサマーディの会員さんで、そのお寺に学生時代からよく通っている方がいらっしゃ いまして、何とかならないだろうかと相談を受けました。和尚さんも八方手を尽くされている ようですが、昔の景観を残して伝統を守るということはいまたいへん難しいようです。

 私は政治活動をいっさいやらないことにしていますので、そういったお手伝いはできません が、そこでセレモニーをやることはできますよと言ったことが、今回の話のきっかけです。

 セレモニーというのは、パイプセレモニーのことです。このメッセージを読んでいてくださっ ている方はご存知だと思いますが、じつはパイプセレモニーというのは、アメリカン・インディ アンの祈りの儀式です。煙草というのは、そもそもこのパイプセレモニーから始まっているもの で、コロンブスがアメリカに行ったときに発見して世界中に広まりました。いまは嗜好品になっ て、肺ガンの元だとか、公害の元だとか言って、さかんに非難されるような状況ですが、当初は 祈りのための道具でした。

 私たちはお母さんから産まれてくるとヘソの緒が切れてしまいますが、インディアンは呼吸で 母なる地球と新しいヘソの緒がつながるのだと言っています。息を吸うというのはお母さんから エネルギーをもらうことだし、息を吐くというのは自分のメッセージをお母さんに伝えることだ というのです。お母さんというのは母なる地球、母なる大地ですね。

 パイプセレモニーで使う煙草は、特別 に祈りを込めて育てた薬草でふつうの煙草とはちょっと 違うのですが、それをパイプに詰めて祈りを込めて煙を吐き出します。そうすると煙は空中に立 ちのぼっていき、彼らがワカンタンカと言っている創造主のところに届くわけです。パイプが祈 りの方法として定着したようです。これは昔から行われている儀式です。

 それに使うパイプは60センチくらいの長いもので、それをみんなで回し飲みしてお祈りをし ます。どうしたことか昨年の夏、私はインディアンの長老からパイプを授かりまして、このパイ プセレモニーをやっていいというお許しを得ました。パイプを持って、このパイプセレモニーを やる人のことをパイプホルダーとか、パイプキーパーというのですが、それはキリスト教で言え ば司祭に相当するような役割を持っています。

 それで結局、このパイプセレモニーをこのお寺でやりましょうということになりました。ただ し、そこに道ができないようにとか、あるいは借景が壊されないように、というお祈りはできま せん。そういうお祈りの仕方はできないわけで、お祈りといっても、我々は基本的には感謝する ことしかできないわけですね。ですから、その場でパイプセレモニーができたことを感謝して、 それからパイプセレモニーをやることによって、そこに集まった人々に心の平安が得られること を感謝して、これまでこの場所が私たちの心の平安に貢献してくれたことに感謝して、そして今 後も人々の心の平安に対してこの場所のエネルギーが貢献することを感謝する、そういう祈り方 なのです。そして実際にそういう祈りをしました。

 お寺は10時から一般公開なので、その前に終わろうと9時からさっそくスタートしました。 瞑想したり、般若心経を唱えたり、そこに集まった10数人くらいの人々に、パイプのいわれか ら、セレモニーの意味までいろいろお話するうちに10時を過ぎて、一般 観光客がたくさん入っ てきましたが、そのまま続けました。パイプに煙草を詰めるときには、歌を歌わなければなりま せん。パイプ・フィリングソングというのですが、大きな声で歌を歌って東西南北と天と地とす べてのものに感謝しながら、その都度少しずつ煙草を詰めていくのですが、これはちょっとした 光景でした。

 たいへん天気がよくて、遠くに比叡山が見渡せ、素晴らしい建物の中で、私たちは腰を下ろし ていました。火気厳禁と書かれている中でセージを焚いて、まさにパイプに火を付けようとして いるのです。そしてパイプに煙草を詰めるのに大声で歌っています。なんと怪しげな一団ではな いでしょうか。まわりいっぱいの観光客は、「何だこの連中は」という好奇心に溢れた、奇異な まなざしをこちらに向けています。もしこの姿を私の家族なり、親類なり、あるいは会社の人間 が見たらどう思うだろうかと、一瞬たじろぎもしました。とにかくそんな形でひじょうに素晴ら しいパイプセレモニーができました。

 今日のお話は、そのときのお祈りが、なぜ感謝のお祈りになってしまうのだろうか、ということ です。もともと依頼してきた人は、そこに道ができないように、あるいは建物ができないように、 お祈りをしてくださいと言ってきたのです。私はそれに対していま言いましたように、単に感謝す るということだけのお祈りをしたわけですね。なぜそうなってしまうのだろうかということが、今 日のテーマです。

 結局、我々は生きていくうえでいろいろなことが起きるし、いろいろな人に会ったり、いろいろ な出来事が毎秒毎秒起きていくわけですが、インディアンはそれはすべて創造主の贈り物であると 考えます。たとえ何が起きようと、誰と会おうと、どんな目に遭おうと、それはすべて創造主から の贈り物であって、それをすべて受け入れるということを、ひとつの理想にしています。たとえ何 が起ころうとも、いまこの瞬間に誰が来て私を殺そうとも、それは創造主から私に対する贈り物で あって、それは感謝を持って受け取らなければならない。あらゆることに感謝をする。あらゆるこ とが創造主からの贈り物だから。

 これをアクセプタンス(受容)と言います。たとえ、あいつに会って嫌だなとか、こんなことが 起きて嫌だななんて、私はついていないんだろうとか、そういう思いというのはアタッチメントと 言いますが、これはたぶん仏教の言葉で執着(しゅうじゃく)ということに通 じると思いますが、 そういう思いというのは、自分がレッテルをつけているだけですよ、ということなのです。

 したがって、圓通寺の話でいえば、そこに道ができて、そこに建物が建ったら嫌だというのは、じ つはこれもアタッチメントなのです。執着です。そこに道ができるかどうか、そこに家が建つかどう か、借景が壊れるかどうか、ということはすべて我々が決めることではなくて、クリエーターが決め ることであって、もしクリエーターがそれを決めたとしたら、それはそれでひとつの贈り物であると いうことで、我々はそれを何の執着もなく受け取らなくてはなりません。

 したがって、そこに絶対この借景が壊れてはならない、そこに道ができて欲しくないと強く望むこ とは、逆に葛藤になるというのがインディアン流の考え方です。そして私はパイプセレモニーをやる ときには、すべてインディアン流のお祈りをするように教わっていますので、そういう形でお祈りを したのです。これは東洋の思想にも通じます。自分の理想を持ち、正しい判断をし、できるだけ努力 して周囲の状況をいい方向に変えていくというのが西洋型の発想であって、それに対してインディア ンの、東洋の、仏教の考え方は、もちろん努力はするのだけれども、結果 に関しては自分の手を離す。 こういう結果になって欲しいということに関しては、強く思わないで手を離してしまい、成り行きに 任せるという考え方が一般的です。

 この2つの思想は、非常に大きく矛盾しているわけで、ここのところが実は人生観の上で、ものす ごく大きなポイントを占めます。たとえば一生懸命働いてお金を稼ぐとか、会社の中で出世して偉く なるとかも、どちらかというと西洋的な考え方ですし、もう少し内面を充実して、外面 はあるがまま に任せるというのが、東洋思想的な神髄に通じる道じゃないかと思います。

 キリスト教でもよく調べていくと、そういう教えがありますから、これは西洋、東洋というよりは、 むしろ宗教的な道であろうということです。そしてどちらがいいということではなく、両方の道がある わけですが、どちらの道が心の平安に通じるだろうかといえば、おそらく、あるがままの状況をすべて 受け入れる方向が、心の平安に通じるわけです。

 したがって、そういう生き方もある、そういう考え方もあるということを知っておけば、何かの参考 になるのではないでしょうか。