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2001年01月『21世紀、水瓶の新しい時代に向けて』

 みなさんこんにちわ。今日は12月21日ですから、あと10日ほどで21世紀になります。20世紀から21世紀に移るということで、いろいろ騒がしいわけですが、基本的に時間というのは、連続的に蕩々と流れているわけで、1999年から2000年に変わるときと、2000年から2001年に変わるときに、何か大きな違いがあるかというとそんなことはありません。これは単に新しい1年が巡ってくるだけです。

 しかしながら、少しひいてフォーカスして見ると、それぞれの時代というのは、やはり何らかの形容詞で当てはまるような、特色を持っていることが見受けられます。いま私は本職のほうはロボットをやっていますが、ロボットはコンピュータの一種だというのが、私たちの捉え方です。

 コンピュータの歴史を振り返ってみても、1960年代というのは、あきらかにメインフレームコンピュータ、大型計算機の時代でしたし、1970年代はミニコンの時代だといわれています。1980年代はワークステーションとかパーソナルコンピュータ、PCの時代、そして1990年代がインターネットの時代。必ずしも10年の境目でスイッチが切り替わるように変わったわけではありませんが、ひじょうに大まかに見ていくと、10年10年でそれぞれの時代の特色が現れてます。そして2000年から始まる10年間はロボットの時代になると、私はしきりにマスコミ等々で言ってきています。

 それでいよいよその21世紀が来るわけですが、この21世紀を遙か彼方から眺めたら、どう見えるだろうかという話を少ししたいと思います。じつはこれは20世紀から21世紀というよりも、やはり魚座から水瓶座に移るというほうが、より大きな捉え方になるのではないかと思います。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、西洋の星占いは、魚座とか、牡羊座とか、山羊座とか言いますが、それは何かといいますと、季節の移り変わりによって日の出の方向にある星座が移っていきますが、そのときの星座の名前でその季節を表しているのです。

 ところが地球というのは、コマのゴマスリ運動のような運動をしているので、たとえば、春分の日の日の出の星座の位 置というのは、毎年これもずれていきます。そのずれる周期が約2000年です。ところがそういう天体観測がまだ充分できていなくて、理論もわかっていない遙か昔にできた占星術に、何故そんなことがわかっていたのかわかりませんが、インドの占星術でも、西洋の占星術でも、地球の運動による動きというのをちゃんと組み入れているのです。

 それで春分の日に太陽が出る位置が過去2000年間は魚座だったのが、いまから始まる2000年間は水瓶座になるということです。その切れ目がいつになるというのは、人によっていろいろ見方が違っていて、大まかに言えば100年くらいのズレはありますが、しかしながら、占星術上はそういう大きな星座の違いがあるということになっています。

 西暦2000年の、西暦はどこから始まったというと、イエスキリストが生まれたときから始まっているんですね。ですからイエスキリストというのは、魚座に移り替わったとたんに生まれてきたということで、西洋の文献ではときどき「魚座の男」という言い方をされています。したがって、このイエスキリストの時代、魚座の時代がこの2000年に終わって、新しい水瓶座の時代が始まることになります。いまちょうどその境目に来ているわけです。

 そして魚座から水瓶座への切り替えというのは、あと10日でピシッと切り替わるというのではなくて、1900年くらいから言われ続けていたのです。その新しい時代のことをニューエイジと言います。ですからニューエイジというのは、前の世紀の終わり頃にもしきりに言われいて、そういう雑誌も発行されていました。

 で、ニューエイジというのは、やはり水瓶座の時代のことで、それは時代が変わるということがしきりに言われてきました。それは西洋占星術のほうでも、インドの占星術のほうでもいわれています。そしてより精神性に立脚した文化が盛んになってくるというのです。

 じつはいま我々の文明というのは、ひじょうに物質中心になっています。お金中心の文明になってきていて、お金というのがすべての指標になっているわけですね。ですから企業というのも、売り上げを上げ、利益を上げて、お金でもってすべて成績を判断します。企業の中の人も、その売り上げ利益に対してどれだけ貢献したかということで評価されて、ポジションや給料が決まったりするわけです。国全体もGNP(国民総生産)ということで、国の評価も決まっていました。

 そういう意味で、1990年頃に日本のバブルがはじけ、経済的な指標がだめになってきています。そのために「失われた10年」という言い方もされていますが、それはお金を指標にしていて、物質世界の評価ではたしかにそういうことがいえるかもしれません。

 ところがいま、私がいろいろ観察していますと、この10年間というのはひじょうに素晴らしく、けっして失われた10年ということではないと思うのです。それまでの高度成長時代はどのくらい続いたかわかりませんが、マクロ的に見ると、1950年代から続いています。そして約40年間続いた高度成長時代というのはやはりおかしくて、ひずんでいました。人々は成長成長と一生懸命で、お金を指標とした世界が煮詰まっていった時代だったんだと思うんですね。それがすべてのところに反映して、我々はちょうどそのなかで一生懸命働いて企業に貢献してきたわけです。いまから振り返るとよくわかりますが、そのときはすべての価値観がそちらに行っていました。

 会社で働いていただけではなくて、遊びに行ったときも、必死になって何かやろうとしていました。一生懸命、歯を食いしばって遊んだのですね。たとえばスキーに行くと、一日何本滑ったということが指標になるわけです。ちょうどお金が儲かったと同じように、指標を一生懸命作って、ほんとうに足腰立たないほど疲れていても、リフトが動いている間はリフトに乗って降りてくる。何本滑ったということを稼ぎたいので、あまり曲がらずに直下行で降りてくる。なんのためにスキーをやっているのかわからないけれど、そんなふうな遊び方をしていて、歯を食いしばって遊んでいたという記憶があります。

 ところが、最近の若い人たちは、スキーの楽しみ方もぜんぜん違っていて、2、3本滑って、あとはお茶を飲んでだべっていたりするわけですね。だから我々の時代の楽しみ方とはぜんぜん違っていて、彼らはすごくリラックスして楽しんでいます。ほんとうにどっちが楽しいかというと、私は最近の若者たちのほうが、より人間の本性に戻ってきたという感じがしてしようがないんですね。

 我々の時代というのは、遊びですら必死になって、何でもやるという価値観にとらわれていました。それが90年頃にバブルがはじけて成長神話が崩れ、いったい何がほんとうに価値があるだろうかということで、そこから私自身もそうですが、みんなが人間とは何か、社会とは何かといろいろ考えはじめました。そこから政治の混迷が始まり、社会も混迷していますが、それは当然のことです。それまでの価値観が崩れて、新しい価値観に移り変わっているときですから、私はたいへん素晴らしい10年を日本は過ごしてきたのではないかと思うのです。それを私は魚座から水瓶座に移るための素晴らしい準備期間の10年だったという具合に、いま定義づけています。

 国の指標を測るときに使うGNPとかGDP(国内総生産)とかいう指標は、魚座の測定法、あるいは20世紀の測定法でした。日本というのは素晴らしい社会で、タクシーや電車の中に財布を忘れてもかなりの確率で戻ってきます。文明国でこういう国はほとんどありません。台湾とかギリシャとか、ほんとうの1、2国しかありません。アメリカでもイギリスでもドイツでもフランスでもそこに住所が入っていても戻ってこないのが普通 です。それを警察に届ける人はいません。それが常識な社会なんですね。

 したがって日本はそういう文明国の中ではたいへん特異な存在で、素晴らしい社会であるにもかかわらず、日本人はそれにいっこうに気付いていません。これはじつは測定できるわけですね。たとえば、いろいろなところに財布を置いてどれだけ戻ってくるかということで測定してみるというように。そして言葉としてはおかしいのですが、それを「グロスナショナルオネスティ」とかいう指標にして、それで国を評価してみる。これから10年、20年でそういう時代が来るとは思いませんが、21世紀というのは、そういうことが評価基準になるような社会になるだろと考えています。

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